説明
「体配 style」
平造り庵棟、身幅重尋常、やや先反り付く。茎は生で鑢目は切、茎尻は栗尻と成る。
「彫物 carving」
棒樋がハバキ下に掻き流しとなる。
「地鉄 jigane」
小板目が良く練れて詰んで地沸が付く潤いの有る鍛。
「刃紋 hamon」
刃文は明るく冴えて、匂口締まり小沸がつく太目の中直刃で、処々に小互の目が現れ小足入り、物打ち辺りが二重刃掛かかる。釯子は直ぐに入り尖り気味に返る。
「特徴 detailed」
初代忠吉、元亀3年(1572)~寛永9年(1632)は元亀三年に佐賀郡長瀬(現在の高瀬村)に生まれました。本名は橋本新左衛門尉忠吉と称し、日本刀史上では肥前刀の開祖であり最高位の名工です。
若くして鍋島直茂に録二十五石で召抱えられ、慶長元年(1596)25歳のとき、藩命により一門の宗長と共に京の埋忠明寿の門に入り学びます。慶長三年に帰国して、佐賀城下に住し、肥前佐賀藩の庇護のもとに大いに栄えました。元和10年(1624)武蔵大掾を受領し、名を忠広と改めます。彼は慶長新刀期を代表する屈指の名工です。その作風は青江写し、志津写しなどあり非常に上手であり古作と比べても遜色がないほどです。慶長10年頃より、小糠肌に直刃や湾れ刃、互の目丁子刃などを焼くようになり、肥前刀と呼ばれる作風を確立するに至ります。寛永9年8月15 日、61歳で没しています。作品は新刀最高位で位は新刀最上作。更に切れ味も抜群との評価から最上大業物にも列位します。初代の作品は重要刀剣にも多くの指定をみます。彼の息子の近江大椽忠広は終生忠吉と銘を切らず、80歳まで作刀を続けます。以下の子孫は幕末まで八代に渡り繁栄して肥前刀の名を高めました。肥前国住人忠吉作、肥前国忠吉、肥前住忠吉、肥前国住人武蔵大掾藤原忠広、肥前国藤原忠広などと銘を切ります。制作の時期により、五字忠銘、秀岸銘、住人銘、改銘後の忠広銘に分かれます。
本作はやや先反りの付いた慶長体配の寸延び短刀です。初代忠吉の寸延び短刀は珍しく貴重です。
付属する拵は幕末の物だと思われます。葵が入っていますが伝来が分からないため、どの徳川家か分かりません。目貫の金錆が良い雰囲気を醸し出しています。
★鑑定書は未到着のため、後日発送します。
「拵 Koshirae」
ハバキ(habaki) :素銅地金着二重。
縁頭(fhchikashira):水牛の角に金泥が塗られる、鯉口も同じ。
目貫(menuki) :金地葵紋の図(金無垢?)。
柄(tsuka) :鮫は親粒が付き巻鮫の出鮫柄。親粒を見ると献上鮫だと思われる。
小柄(kotsuka):素銅地金張、葵紋が入る。
鞘(saya) :金梨地に金蒔絵の葵紋が入る。白鞘、つなぎ付き。
「刀剣の状態 condition of blade」
研:良好です。
傷: 欠点に成るような傷は有りません。