説明
平造り庵棟、身幅重とも尋常、反り僅か。茎は生ぶでタナゴ形、鑢目は切り、茎尻は入山形。
「地鉄」
板目肌に杢目が交じり、地沸付く。
「刃紋」
互の目乱れ、匂口がしまる。帽子は刃紋なりに入り、たるみ心に深く返る。
「特徴」
岩本 徹三(いわもと てつぞう)氏は、1916年6月14日旧樺太庁生まれの日本海軍軍人。日中戦争、太平洋戦争における撃墜王。最終階級は海軍中尉。
日本海軍のエース・パイロット。「最強の零戦パイロット」、「零戦虎徹」と謳われ、日中戦争から太平洋戦争終戦までほぼ最前線で戦い続けた。
戦後、岩本の手記は「零戦撃墜王」の題名で出版され、撃墜数は202機と記録している。
自ら「虎徹」と称し垂直降下一撃離脱撃墜を特技とした空戦の達人だった。
操縦練習生を卒業後、航空隊勤務を経て、第13航空隊に配属され中支戦線に進出し、昭和12年2月25日の南昌攻撃で初空戦ながら単機にて敵機5機撃墜し、9月に帰国するまでに計14機を撃墜、日華事変のトップ・エースとなった。
昭和16年4月空母「瑞鶴」乗組となり、零戦訓練を受ける。
10月新鋭空母「瑞鶴」戦闘機隊に転じハワイ真珠湾攻撃、セイロン沖海戦、サンゴ海海戦に従軍した。
昭和17年8月、大村航空隊教員に転じ本土へ帰還、横空、追浜航空隊勤務を経て昭和18年3月、新編成の第281航空隊付に発令され、北千島方面の防空任務ののち11月にラバウル派遣隊に加わり、激戦のラバウルに進出、翌年2月末トラック島へ後退するまでの3ヶ月間、第201・204・253航空隊に転じ連日の迎撃戦に健闘し142機を撃墜した。
昭和20年3月、第203航空隊戦闘303飛行隊に転属し、南九州防空戦、沖縄航空戦に参加して岩国基地で終戦を迎えた。
総撃墜機数216機、協同撃墜機数26機、地上撃破2機。
戦後は、2年間の闘病生活、元気になったらもう一度飛行機に乗りたいと念願したという。
“零戦撃墜王”岩本徹三氏は日華事変から終戦までの回想録を大学ノート3冊にぎっしりと書き残し、昭和30年5月20日逝去。
本短刀は、末古刀で刃紋、たなご腹の茎からみて三代相州綱廣のような感じです。後代村正か千子系かも知れません、拵は小刀(ちいさがたな)拵の鞘に革覆いを付けた改良型軍刀で、昭和18年4月1日に海軍飛行兵曹長(準仕官)に任官された時、当時配属されていた第281航空隊の練成場所であった館山で作られた物でしょう。実際に岩本徹三氏が所持した軍刀との証拠は有りません。しかし昭和18年4月から20年8月15日までの2年半年、彼と共に零戦の操縦席で幾多の空中戦を勝ち抜き、彼の御守刀として役目を果たしてきたことを想うと胸が熱くなります。
「拵」
ハバキ:素銅地一重の庄内。
鍔 :鉄地角木瓜形蝶の図象嵌。
縁頭 :頭は素銅地山道の図、縁は赤銅石目地波の図。
目貫 :金地獅子の図。
柄 :鮫は鮫、柄巻きは正絹黒の諸摘み巻き。
鞘 :革覆い打刀木鞘。
「刀剣の状態」
研:古研ぎのため、少し薄錆が有るのと、ヒケが有りますが、地刃は良く見えます。
傷: 欠点になるような傷は有りません。